落としどころをなんとなく予想しながら喧嘩ふっかける、みたいな態度を見なくなって久しい。
「予測不可能な時代」ってのはもうクリシェだけども、そういうクリシェに甘えているようにも見える。
予測不可能だからと開き直らずに、きちんと落としどころを作るように喧嘩するのが、大人としての最低限の努めだろうに。
落としどころをなんとなく予想しながら喧嘩ふっかける、みたいな態度を見なくなって久しい。
「予測不可能な時代」ってのはもうクリシェだけども、そういうクリシェに甘えているようにも見える。
予測不可能だからと開き直らずに、きちんと落としどころを作るように喧嘩するのが、大人としての最低限の努めだろうに。
www.instagram.com/reel/DCZvbcw...
OZARK見てるけど、なんだろな、この元気のなさは(笑)
グローバルな恐怖経済活動組織たるカルテルと、ローカルな地縁血縁共同体の間で右往左往する資金洗浄係の一家を描くという、それだけ見るとそれなりに面白そうなのに、全編に漂う主人公の疲れた感が、鑑賞者にも伝播してしまうという。。。
#見た人は無言で去年の3月の写真を貼る
オッペンハイマーの愛称が「オッピー」と聞いて、どうしても小島よしおの「おっぱっぴー」がちらついてしまうのが原爆投下された日本の今日であり、オッピーの落ちくぼんだ目と「おっぱっぴー」は、いずれも虚空を見つめていた。
ちなみにoppyがoppappyに変化する際に加わる「PAP」は、「particulate air pollution(粒子状物質による大気汚染)」の略称にもなっているようで。
こういった世の無理解に屈するなかで、一番の被害を被ったのは、ジャイアンであった。
暴力的な男だがひたすら歌を愛し、にも関わらず最終的にはそれを暴力的に披露することしかできないジャイアンは、ただ不器用なのび太以上に、今回のテーマに即した存在だったはず。
こういうキャラクターの要素を活かすどころか、単なるコメディリリーフとして物語の中心から外へと追いやってしまったのが、ただただ悲しい。
21世紀に入ってさえ、音楽はくだらないマウンティングの要素にされている。
fin.
ドラえもん映画というのは、ある意味で学校以上に公教育を担うコンテンツだが、同時に大衆娯楽であり、世の趨勢を伺うコンテンツでもある。
残念ながら、いまだに世間では絶対音感なるものを有難がったり(音が周波数からズレると気持ち悪いとか言い出す人って、微分音とかのことどう思ってるのか気になる)、カラオケ採点番組を喜んだりする無神経な人も多いようだし(あ、番組自体はぜんぜんきらいじゃないですよ)、平均律以外の音楽を平然と見下したり無視したりする価値観がまだまだ蔓延ってるということなのだと理解した。
9/n
これはつまり、楽音と非楽音を明確に線引きしようとする姿勢であり、言い換えれば、固定化された楽音の序列のなかに、それら「のの音」や街なかのサウンドスケープが加わったということでしかない。
のび太の奏でる「のの音」は無事に楽音として認められるが、ジャイアンは劇中、何度も言及されるにも関わらず、一度たりとも歌わせてもらえないのである。ひたすらジャイアンの歌声は嘲笑の対象となり続け、そして観客にもその笑いが強いられる。
8/n
その甲斐あってか、確かに今回の『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』においても、20世紀以降の音楽が辿った痕跡はところどころ伺える。
物語最大のキーとなる、のび太のリコーダーが奏でる「のの音」は、まさにドレミの外にある非楽音そのものだし、セミの鳴き声や鳥のさえずり、あるいは街なかのサウンドスケープも音楽として描かれている。また、ワーグナーを思わせる指揮者(惑星ムシーカから逃れたロボットの1人、その名も「ワークナー」)は演奏の下手な者を「排除」しようとさえする。
ただ、見落としてはいけない。「のの音」や街のサウンドスケープによって駆逐されるのは、結局「ノイズ」なのである。
7/n
静寂に包まれたコンサートホールで聴衆が放ったくしゃみの音でさえ、サンプリングしてブレイクビーツにすることができるのが、いわゆるクラシックから現代音楽を経てポピュラーミュージックに至るまで浸透させてきたのがここ100年ほどの音楽環境である。
つまり今日の音楽は、楽音と非楽音を一時的に仕分けたりはするが、その仕分けのルールは個別の作品内においてのみ機能していて、ひとたび作品の外に出れば、あらゆる音はまた等しい価値を持って鳴り始める。
調性の外へ、平均律の外へと、音楽を介して音を解放してきた。
6/n
別に人権問題じゃないんだからいいじゃん、という指摘はあるかもしれない。しかし、ナチス・ドイツの音楽観から差別扇動的なネット論客の稚拙なクラシック推しに至る系譜を思い起こせばいいが、差別と美的価値観というのは、その関係をしっかり整理しておかないととんでもないことになってしまうのは言うまでもない。
美的な価値観というのはたしかに優劣を生む。それは動かしようのない事実である。しかしその優劣は絶対的でなく、作品のパッケージの仕方次第でいくらでも変わる相対的なものである。というのが、20世紀以降の音楽家たちが腐心してきたことであった。
5/n
例えばフィクションにおけるポリティカル・コレクトネスはいまや当たり前の話で、昨年の『バービー』なんかはジェンダー的観点からのダイバーシティを高らかに歌い上げた作品だった。
日本においてもこの流れはあるようで、ドラマなどでセクハラ、パワハラがテーマになったり、テレビ芸能においてもジャニーズ問題や松本人志問題が起きたりしている。
こういったダイバーシティが徐々に受容されていく一方で、こと音楽を主題にしてしまうと、途端に楽音と非楽音を極めて単純なラインで差別化してしまう作品が、平然と受け入れられてしまったりする。
4/n
この「ノイズ」というのは基本的にはウイルスのようなイメージで、ポストコロナ以降の作品としてはごく自然ではある。
一方で、しかし「ノイズ」というのが思いっきり直球の非楽音を指していて、コロナどころかポストモダン以降の作品とは思えないほど不自然だ。
ケージやルッソロを引くまでもなく、百年以上前に作られたアニメ脚本を少し改変したんだと言われても納得するくらい、めちゃくちゃ遅れた音楽観、つまり差別的偏見に満ちている。
3/n
大まかなあらすじとしては以下の通り。
かつて音楽の力によって高度な文明を築いていた惑星ムシーカは、宇宙生命体「ノイズ」によって音楽を奪われ、壊滅してしまう。最後のムシーカ人1名と、ムシーカを支えてきた無数のロボットたちは宇宙船に乗り込み、およそ4万年の時を経て地球に降り立つ。最後のムシーカ人であるミッカは音楽に溢れた地球で、休眠状態に入っている宇宙船を再起動させる力を持つ5人の「ヴィルトゥオーゾ」(のび太、ドラえもん、ジャイアン、スネ夫、しずか)と出会うが、同時に地球にも「ノイズ」の魔の手が忍び寄る――。
2/n
春休み中の家族と、ドラえもんの最新作『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』を仕事終わりに。
作品そのものが面白かったかどうかには別の議論があるが、極めて遅れた音楽観に支えられた、要するに差別や偏見に満ちた作品になっていた。
ドラえもんは学校以上に公教育を担う巨大コンテンツだけれども、価値観が100年近く前のまま。
全編にわたって音楽への無理解と暴力がみなぎっていて、これは悲しい。
1/n
youtu.be/UDApZhXTpH8?...
#311検索はチカラになる に参加しました。ヤフーやLINEで「3.11」と検索すると、LINEヤフーから、おひとりにつき10円が、東日本大震災および能登半島地震の復興支援のために寄付されます。#311これからもできること https://yahoo.jp/r_eAqV
世に吹きすさぶ暴力を眺めるたび、自分の手をじっと眺めて、その輪郭を確かめる。自分はいったいどこからどこまでなのか。その輪郭の外側にいるのが、おそらく他者である。
支出の1年が終わり、エクセルを開いた。
クレジットカードの履歴とメインバンクの通帳記録は、すべてCSVファイルでダウンロードした。
1年分の支出を集計したら、とんでもない赤字になっていた。
4/n
他者をリスペクトするために必要なのは、余裕である。
余裕を積極的に生み出さなければ、他者の存在を想像できなくなる。
「おれは余裕がないと人にやさしくできない」
十五年以上他者と暮らしてきて突き付けられたのは、追い詰められると他者を想像できなくなる、ということだった。
激しく沸騰する恋愛の季節を終えて、ぐつぐつと弱火で煮立てる時期に入ったのはいつからか。
私はいつも、未成熟な自我を補完してくれる存在ではなく、常に他者である存在を前にしている。
「家族と暮らして孤独を感じない男は、DV野郎に違いない」とおれは思った。
3/n
目指すのは、我慢のない生活。
金に糸目をつけず、とは言わないが、買いたいと思ったら即買った。
料理が面倒なときはすぐ食べに行く。週末は家族の興味のままに、いろんな町に出かける。金を使う。クレジットカードで払う。
クレジットだから大丈夫、と話すと、意味わかんないと笑われる。
でもそう言っておけば、妻は遠慮のガードを下げやすくなる。
2/n
家計管理をしたいと思って最初にやったことは、支出に徹することだった。
「とにかくデータだけとろう」
月毎に見ると消費に影響が出るので、データを見るのは1年後。できるだけ一枚のクレジットで全部払う支出の1年が始まった。
1/n
ヒップホップ老人会ぽいこと言うけど、こういうの見るとNIPPSの孫だ!とかつい言っちゃう。
youtu.be/8nYdzDZuvL4?...
シャー言われてますね(笑)
ウェスアンダーソンがネットフリックスでやってる短編シリーズ、ちょこちょこ見始めたんだけどすばらしいな。朗読劇の純粋な映像化、みたいな感じ。洗練が極まってる。
というかなんというか、普段からこんな短編のようなイメージを思い描いていて、その一部を取り出して長編作品にしてってるんだろうなって気がする。
『コーダあいのうた』を観た。
自分は音楽が好きなのかわからないけれど、少なくとも歌が好きだということは、恥じらうことなく言っていいんじゃないかって気持ちにさせられた。
めっちゃいいなー
マンガになる前から、井上雄彦の頭のなかで湘北ー山王戦は、常に動いていた。 だから、『THE FIRST SLAM DUNK』。こっちがはじめの方になる。12/12
マンガ原作の映画化っていうのは、単にストーリーを映画に置き換えるのではなくて、
漫画表現が紙の上で培ってきた文法を、映画という動画のなかにどう転用していくのか、という話でなくてはならないはず。
言ってみれば、かつて映画表現を漫画に持ち込んできた手塚ー大友ラインの逆を辿るような、そういう気概があったんじゃないかと思う。
マンガ版のときにカット割りで見せていたあの素晴らしいページが、映画でそのまま、時間を伴うシークエンスとして動いてしまう。
これは元々井上雄彦が、漫画家である以前にバスケプレイヤーでもあるという、そのことにも関連することなのかもしれない。11/12
造形的なデフォルメや所作は日常的な身体に近づく。
キャラクターたちも、いまの日本の高校生の日常に近づく。
じゃあ、どこにリアルとフェイクの線を引き、どこにデフォルメが置かれるようになったのか。
ただ「時間感覚」と「カメラアイ」だけが、普段私たちが目にしない形で提出される。
つまりは「カット割り」こそが、あり得ることとあり得ないことの間に置かれた、『THE FIRST SLAM DUNK』が果敢に挑んだデフォルメだった。10/12