後で口コミを見たら、出るわ出るわ、低評価レビューが。どうも一見客いじめが常習化している店らしい。平均評価が悪くなかったので、油断してしまっていた。リサーチ不足だったな。
後で口コミを見たら、出るわ出るわ、低評価レビューが。どうも一見客いじめが常習化している店らしい。平均評価が悪くなかったので、油断してしまっていた。リサーチ不足だったな。
今日はとある店に入ったら、店主が一見の客を明示されていないルールを盾にイビリ倒している場面に遭遇してしまい、最悪の気分になった。そこで何もアクションを起こせなかった自分も情け無い。
その場で怒る事ができず、ただただ困惑してしまったのだが、こういう怒りの反射神経の鈍さ、みたいなことも「いじられキャラ」という立場を強化してしまうフィードバックになっていたのかもしれない。
いじられキャラにありがちな嫌な経験として、「嘘の告白」というのもされたことがある。
自分のこういった経験と引きつけて考えてしまうから、コント形式のお笑いって苦手かもしれない。
自分の特性が「いじられキャラ」という役割にマッチしているのか、今まで関わってきた集団のなかでは、いじられキャラになってしまうことがあったのだが、不本意なことで嫌だった。でも、それを言っても、「いじられキャラは美味しい役割だよ」の一言で終わってしまうことがあった。加害ではあるのだろうが、ハラスメントやいじめとまでは行かない、微妙なレベルの尊厳の毀損なので、自分が身をひく以外に解決法がないのがもどかしい。
ITも資本主義も投資も、構造を悪用している人たちの価値観に染まらないで、中心からは距離を取りつつ折り合っていく必要がある。敵に絆されないためにも、敵のことは知っておいた方がいいというか。
というか、今の社会全般を見ていて、どうしても自分が倫理的でないシステムに生存を預けなければならない、という現実に対する葛藤がある。
IT業界の末席に居て、情報技術については学べば学ぶほどこれは奥が深くて面白い、という感覚があるのだが、テック富豪の反動的価値観だとか加速主義だとか、生成AI技術が戦争に利用されていることだとかには虫唾が走る。どうすればいいんだろうねえ。
今は独学では挫折してしまっていたプログラミングを習っている。今まで自力では理解できなかった論理/文法/思想/方法論といった諸々が体系的に理解出来てきて、モヤモヤがスッキリする感覚が楽しい。
世の中の倫理観が下方向に向かっているからといって、それに自分も合わせて振る舞ってしまえばよいというのはあまりにも自我やプライドが無さすぎて虚しい。
世界がどうだろうと、他者がどうだろうと、自分を律し続ける努力をすれば良い。厳しい戦いかもしれないけれども。
国際法無視の戦争の勃発が、人々の道徳心や倫理観の頽廃に拍車を掛ける、これからはルール無用の乱世の時代だ、という言説には一瞬靡いてしまいそうになるけれども、自他というか、自我と世界の間に境界が無さすぎて、そんなバカな、という論理の飛躍がある。でもまあ、嘗ては自分もそんな感じだった。
冷笑的な人とは結構根っこがおんなじな気もするんだよな。意外なことに。善に関することが、その人の不安からの防衛反応を喚起するのか、理想からの渇望を喚起するのかの違いだけであって。
正直、冷笑的な言論に接する度にかなりクヨクヨしてしまう。自分の至ら無さ、理想の高さと器の小ささ、みたいなものを真面目に考えてしまう。と同時に、冷笑的なことを言う人が、何をきっかけにそうなったのかも知りたいよな、とも思ったりする。
SNSでは、正しさに関する合意形成を批判するような用語が日々たくさん生まれていて、それらの容赦ないラベリングに接する度にうっ、て言葉に詰まってしまう。
自分に、自己を良く見せたいという欲望がないことを証明することは困難で、正直否定する術がないので、厄介な概念だと思う。自分の言動が美徳シグナリングかもしれない、ということは認めた上で、相手に問い返したいかもしれない。貴方はどうなんですか。自分が正しいと思うことを他人に伝えたい場合、どうするべきだと思うのか。
人が、公然の場で、社会的正義にコミットする言動をする等、道徳的な優位をアピールすることを企図した振る舞いをするようなイメージだろうか。だがその内実は空虚、と言ったような。左派・リベラル批判の為の言葉として2010年代に良く利用されていたみたいだ。
SNSで、自分と相容れない冷笑的な物言いをしている人のつぶやきを、わざと見ては落ち込んでしまうという奇癖があるのだが、そういう人の呟きから昨日「美徳シグナリング」という言葉をしってしまった。何とも嫌な雰囲気を漂わす言葉だ…まさに自分のこと…
戦争なんて、起きないに越したことはないのだけれども。でも無関心でいるのも心苦しいし。何も行動しないのも。
この先、戦争が起きたら、できるだけ国際機関に寄付をしようと思った。定職を得たら毎月寄付できればいいのだが。今日はUNHCRに寄付した。
そこで相手が仮に何かをインターネットで見ただけで、自分が直接体験したことではないと気づけるような聡い人なら、冷静になってくれるかもしれない。実際に嫌な目に遭っていたり、あやふやな情報に執着してしまう人であれば…どうすればいいんだろう。そこで何か肯定以外の返しができればいいのだが。
この先の人生で、排外主義的な言説を身近な人から直接聞くこともあるかもしれない。そういう時に、その人が自分にとって悪人でなければ、正面切って反論する勇気が正直でないかもしれない。でも、工夫をすれば、何か沈黙するのとは違うコミュニケーションも取れるかもしれない。例えば、そういう言説を見聞きした時に、「何か嫌なことがあったんですか?」「どこで見たんですか?」と疑問を投げかけること。
でも、うっすら反動主義、権威主義的な雰囲気が漂ってて、でもそこにいる人たちは決して悪人じゃない、みたいな場所で、自分の思想を悟られずにそつなく振る舞う意味ってなんなんだろう。自分は自分の人生で人狼ゲームみたいなことがしたいわけじゃない。
新しい場所では腹の探り合いとか慎重さが求められるのに、我慢が出来なくて初手で、自分の思想的なスタンスを開陳してしまったりする。
そのことに自虐的になるのでもなく、冷笑的になるのでもなく、羞恥心を覚えつつ省察の糧にするしかないのかな、とも思う。
やっぱり、自分にも自己の行状、ひいては存在そのものを、他者に好意的に評価してほしいという欲望があるのかな、と思った。
一生独身でいるといまのところ決意している自分にも、「孤立は良くない」「孤立するような人生は失敗だった」というような観念が根を張っている。やっぱりこれはスティグマなんだろうか。
人付き合いも大事だけれども、新しい場所ではそこですべき本来の目的の方が大事だから、履き違えないようにして、そちらに打ち込もうと思う。
人付き合いが諦められなくて、定期的に新しいコミュニティに所属しようとするのだけれども、結局うまくいかない。今も新しい場所にいるのだけれども、あまり誰とも仲良くなれていない。前回は、そのことへの不満を抑えれられなくなって失敗したのだけれども、今回は静観して、無理して人間関係を深めないように自分を抑えている。