アテネ・フランセで担当している「文法と文学」。春学期からは新たにMichel Tournier, « Gaspard, Melchior & Balthazar » (1980)を読み始めます。聖書の「東方の三博士」を下敷きに、想像力豊かに構成されたトゥルニエの文学世界を原文でしっかりと味わっていきます。
www.athenee.jp/1_french/26_...
アテネ・フランセで担当している「文法と文学」。春学期からは新たにMichel Tournier, « Gaspard, Melchior & Balthazar » (1980)を読み始めます。聖書の「東方の三博士」を下敷きに、想像力豊かに構成されたトゥルニエの文学世界を原文でしっかりと味わっていきます。
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エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』。まごうことなき名作。父と母、高校生の娘、小学生の息子、祖母、叔父の家族・親族に起きる出来事が、人生の静かな悲しみに照らされながら、やがて深刻なものから受容されるものへと変化する。人生はやり直せる/直せないものではなく、やり直す必要のないものだと。人生は決められた、流れのある物語ではなく、予期せず訪れる出来事の均衡を欠いた連なり。
クロード・シャブロル『肉屋』。教室のディクテ場面、小学生には難しすぎるバルザックの一節(邦題『三十女』から)« ... un sentiment profond par lequel l'âme la plus grossière devait être impressionnée »「彼女の表情がかもしだす深い感情にどんなに粗野な魂も感動に震えるに違いない」は、それと同時に窓の外に現れるポポールと呼応する。その効果のために選ばれている。
libresavoir.org/index.php?ti...
2025年に創刊100年を迎えた白水社の月刊誌『ふらんす』。その膨大なアーカイブから、倉方健作さんが時代を反映する記事を選び編集した『「ふらんす」100年の回想』。雑誌であっても内容は決して古くならないことを実感します。「ヨシとクニーのかっ飛ばし仏語放談」からは「高畑勲とフランス」を選んでいただきました。
2025年公開強く印象に残った映画:
『罪人たち』
『旅と日々』
『遠い山なみの光』
『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』
『ルノワール』
『名もなき者』
『モンテ・クリスト伯』
『ホーリー・カウ』
『マスター・マインド』
『秋が来るとき』
以前、集合名詞の説明をするためプチ・ロベールの例文« J'aidais maman à faire la vaisselle ; elle lavait les assiettes, je les essuyais » (Beauvoir)を引用したことがあったが、今日Beauvoirを読んでいたら当の文章に遭遇した!天からの賜り物と言えるくらいうれしい。
本人も意識していない善意からの行為(それが善だとも思わず差し出す行為)は、相手にとってはとても大きな助けになることがある。相手はその行為をいつまでも印象深く覚えているが、行為をした本人はすっかり忘れてしまっている。その非対称性に善意の本質があるような気がする。
授業担当者よりも、授業の内容をはるかに適切に、そして平明なことばで語ってくれている感想。「この授業は、普段なんとなく使ってる言葉の本当の使い方を問い直してくれるし、映画や小説みたいな作品の見え方も一段深くしてくれる。いつも当たり前に流している出来事や言い回しを、立ち止まってほどいていくと、そこに隠れていた意味が顔を出す。そのプロセスはちょっとした探検みたいで、考えれば考えるほど景色がひらけていく感じがしてとても面白い。」
リチャード・フラナガン『第七問』。捕虜となっていた兵士の中には、戦勝国となった自国の中で、敗残兵のように戦後をひっそりと生きた者たちがいる。その一方で、戦争中に捕虜を働かせていた者の中には、敗戦国となった自国の中で、戦勝国の英雄のようにうまくふるまい戦後に権勢を振る舞い続けた者がいる。そんな歴史の皮肉を強く感じた。
國枝センセ @TakaKunieda と間瀬センセと永田センセ @ngtchinard の書いてはる『声を聴くこと――ゆらぎと気配の弁証法』(春風社)。科研 @koenotsunagari のシンポの成果物ださうだが、声(とその前段階の気配)を巡る論考集。永田さん訳のヴィクトリア・マス『狂女たちの舞踏会』と
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地下鉄で、向かいの人がこちらを見ながら「それどうしたの?」と英語で話しかけてきた。聞けばイギリス人で、イギリスでディランのライブ見たことがあると。一番好きなミュージシャンを聴いたらS・デニー、R・トンプソン、S・ウィンウッドと!ぼくもN・ドレイク、B・ヤン主が好きだと伝え、さらにニューウェーブではPILやコステロ。日本のディスク・ユニオンは最高だとかいろいろ話すうちに盛り上がり過ぎ、相手は駅を乗り過ごし、最後はグータッチされた。
「出自がこういう人だから、きっとこういうことをしてくれるはず」とは必ずしもならない。確かにその出自をもつ人と、現在のその人は「同一人物」であるが、同一の「自己」を持つとは限らない。自己は認識の仕方や社会関係で変容しうる。もっと言えばその時の戦略で自己に仮面を被せることさえできてしまう。
梯久美子『サガレン』を読んでいて、林芙美子の名前が出てきた瞬間に、名前を初めて知ったのは「偕成社ジュニア版日本文学名作選」だったことをふと思い出した。全60巻のうち何冊か持っていたが、ある時伯父が残りを全部買ってくれた。到底全部は読めなかったが作家の名前を多く知ったのはそのおかげだった。室生犀星、有島武郎、石川啄木…。
映画『遠い山なみの光』。戦争・原爆からたとえ生き残ったとしても、心の傷は決して癒えることはない。そこから変わろうとしてイギリスに渡った悦子の生き方は、数十年して娘の自死という代償を招く。心的回復がはかられることのないトラウマが自責の感情となる。それでも生は続くのだが…。以前小説を読んだ時に、ブログを書いたけれども、「縄の意味」はもう少しつきつめることができたと映画を見て思った。
kunieda.sfc.keio.ac.jp/2017/09/1982...
五十嵐耕平『泳ぎすぎた夜』は雪の青森を歩く男の子をフィルムにおさめた作品だが、セリフがない。もしセリフがあったら子供の世界は大人の世界に染められてしまっただろう。また、私たちもすでに言語化されてしまった世界としてしかこの画面を見られなくなってしまっただろう。言葉がないからこそ、私たちは、画面をみながら、これまで言葉にしなかった子供時代の小さな体験の記憶を取り戻していけるのだろう。
『リンダ リンダ リンダ 4K』上演後のティーチ・インで、監督が最後の場面に触れたのを受けて、出演者のお一人が「監督の選択はどれも正しかった」とおっしゃっていたが、本当にこの映画は、選択と配置がすべての場面で完璧。キャスティング、カメラワーク、4人の位置取り、場面転換、4人の周りの登場人物のキャラクターも…。
かつてお世話になった人のことが思い浮かび、お礼の言葉を言いたいと思うことがある。でも向こうはそんなことはもう覚えていないかもしれない。逆にお世話になっていながら、恩知らずなことに、自分が忘れてしまっている人もきっといるだろう。人との関係は「貸し借り」で考えてもうまくいかない。
文学は究極的には一人の孤独な人間を救うためにある。一人の孤独な人間が偶然に一つの作品に出会い、それによってこの寄る辺なき現実から救われる。だからこそ、国民文学や世界文学といった誤解をはらむ、文学をくくってしまう名称はなかったほうがむしろよかったのだ。
ある出来事を体験し、それを記憶している人々も80年すればいなくなってしまう。その限界値という意味で80年は時代の区切りである。戦後80年のこの夏だからこそ真剣に考えなくてはならないのに、まさに記憶の歯止めを失い、大切に伝えられてきた体験を蹂躙するような言葉が撒き散らされている。
いつにもまして内容の濃い放談でした。中でもヨシのヤコブソンの「交話機能」とは「やりとりすることで、その場的に共に在るものとなっていく」との言葉にハッとしました。ぜひ手に取っていただければ!
Lina Soualem, « Bye Bye Tibériade ». 1948年のナクバで故郷を追われた曽祖母と祖母、パレスチナからフランスへ渡り、俳優となった母、そして私。女性四世代を主題としたドキュメンタリー。カメラを回すことで初めて語られる母の過去の苦しみ。家族の「日常」の物語とその背景にある大文字の歴史。
文化とは、アイデンティティ(正体)というより、自分の存在のよりどころとするもの。ときに自分の存立のために必要だが、時間が経てばそこから離れていくこともできる。自分の中に文化を住まわせても、それが地盤であっても、そこから身を引き剥がすことができる。文化と自己は柔軟な関係。
デカルト『情念論』「なんらかの対象と初めて出会うことで、わたしたちが不意を打たれ、それを新しいと判断するとき、つまり、それ以前に知っていたものや、あるべく想定していたものとははなはだ異なると判断するとき、わたしたちはその対象に驚き、激しく揺り動かされる。」能動的学習(学修)においても、教育の場で「不意を打たれる」受動体験がなければ、そもそも能動は始まらないのではないか。
書かれたものから、書いた人の気持ちが切実に伝わってくるのはなぜなのだろう。文字の向こうに、文字の内容とは別の、文字には書かれていない書いた人の気持ち(心遣い、喜び、悲しみ、ためらい…)の存在をはっきりと確信できる、この伝導に名前をつけたい気分だ。
『ふらんす』編集長のインタビューが載っています。「小さい雑誌だからこそ続けてこられたのだと思います。この小ささを大切に、これからも毎号毎号丁寧につくり続けていきたいと思っています。」毎月必ず出版されるのも小さな奇跡の連続です。
book.asahi.com/jinbun/artic...
「大学こそ、重要な本質的問題が研究され討議され考察される場とならねばならないと、わたしはつねづね感じている。ところが、もし大学が、社会的・政治的問題の圧力に屈したり、あるいはその解消をもとめられたりしたら、大学はその機能を失い、いま政権を握っている政党の単なる付属物になりさがってしまうだろう。」(エドワード・サイード『文化と帝国主義』みすず書房、28ページ)
「サイードは『読むこと』という営為を個人の精読への努力と集団による解釈の積み重ねのあいだの弁証法的関係としてとらえていた。」(中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』書肆侃侃房、131-132ページ)。研究会で輪読を行う理由もまさにここにあると思う。
最近はっぴいえんど、裸のラリーズといった名前を学生から聞くようになり、昨日はついにキャプテン・ビーフハートが好きという学生が!最近はどうやって音楽と出会うのだろうと興味を持ったが、自分の場合を思い出すと、中三の時に偶然ラジオで聞いた「ラフ・トレード特集」の影響が本当に大きかった。
都庁のプロジェクション・マッピングなどやらずとも、東京タワーだけで十分美しい。
新幹線で隣に座る予定の海外からの旅行者が予約した大型荷物スペースが使えないというので、一緒に見てみたが確かにどうしても鍵が開かない。四苦八苦しているうちに車掌さんが来て別の車両に案内されたが、しばらくしたら戻ってきて「さっきはありがとう」とビールを手渡された。握手をして別れた。よい旅を、と。